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幕末の風雲児・坂本龍馬現代にも通じる“仕事術”に迫る

2022.10.04
オカムラグループには、一人ひとりが、日々の行動の拠りどころとするための「私たちの基本姿勢 -SMILE-」という5つのアプローチがあります。

編集部では、この「SMILE」について、「もしかしたら、時代を超えて、さまざまな仕事やはたらき方にも通じるのではないか?」という仮説を立てました。そこでスタートしたのが、本連載「SMILE」歴史探偵団です。誰もが知っている、歴史上の人物とそのエピソードに着目して、「SMILE」の観点で分析。その人物の成功の秘訣がどこにあるのか、独自に考察します。
 
今回のテーマは、幕末の風雲児・坂本龍馬。江戸幕府を終焉へと導き、明治新政府を打ち立てるきっかけを作った人物です。彼の激動の人生は、司馬遼太郎の代表作『竜馬がゆく』(文藝春秋)をはじめ、様々な創作物にインスピレーションを与えています。わずか5年の間に、日本最初の商社・亀山社中の結成、不可能と思われた薩長同盟の実現など、数々の偉業を成し遂げた龍馬の生き様を「SMILE」で分析します!

坂本龍馬の仕事ぶりを「SMILE」で分析!

まずは、「私たちの基本姿勢 -SMILE-」を紹介します。Shine、More、Imagine、Link、Expertという5つのアプローチは、私たちオカムラにかかわる、すべての人の笑顔のために、オカムラグループの従業員一人ひとりが日々の行動の拠りどころとしています。
 
では、編集部による「SMILE」分析結果を見ていきましょう。「SMILE」の観点から坂本龍馬の働きを分析してみると、特に「Imagine」「Link」が優れていることがわかります。同じ幕末に活躍した土方歳三は"鬼の副長"としての厳格な行動が評価ポイントでしたが、龍馬は人望の高い人物としての評価が際立つ結果となりました。
 
Shine勉学は苦手だったものの、海外事情など新しい知識の習得には積極的
More海運立国の思想に注目。海軍操練所や亀山社中の発足に尽力
Imagine犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の間に入り、薩長同盟を実現
Link大胆不敵な交渉術で、藩閥を超えて重要人物たちを味方につける
Expert日本に新しい時代をもたらすため、全国を奔走


いち早く海運に注目した先見性と、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩に同盟をもたらした交渉力。龍馬は「相手が活きる」「チームが活きる」タイプの人物だったと言えるでしょう。キーパーソンに働きかけて、理想の実現に向けて巻き込んでいく――そんな現代のビジネスマンにも通じる能力が、龍馬には備わっていたのではないかと推測します。
 

“新しい国を作る”ため―短く鮮烈な革命児の生涯

龍馬が活躍した幕末期は、260年続いた江戸幕府が終わりを迎えようとしていた時代。前回ご紹介した土方歳三が幕府を守るために戦ったのに対し、龍馬は旧態依然とした幕府を倒して明治新政府を打ち立てようとしていました。28歳で勝海舟に弟子入りし、33歳で暗殺されるまでわずか5年。その間、龍馬なくして明治維新はなかった、と思わされるほど重大な仕事を次々に成し遂げていきます。

1835年 高知城下上町に郷士の次男として生まれる
1853年 剣術修行のため江戸へ向かう
1854年 土佐に帰国。河田小龍から海運の重要性を示唆される
1862年 土佐藩を脱藩。江戸に入り、軍艦奉行並・勝海舟の門下生となる
1863年 土佐藩からの帰国命令を無視して、ふたたび脱藩する
1865年 亀山社中を結成する
1866年 西郷隆盛と桂小五郎を説得し、薩長同盟を成立させる
1867年 大政奉還が成立するも、京都・近江屋で刺客に暗殺される

18歳で江戸に出た龍馬は、黒船来航という歴史的な事件に直面することに。黒船来航は多くの日本人に脅威を与え、各地で尊皇攘夷運動が盛り上がりはじめます。龍馬自身も、20代半ば頃に「土佐勤王党」という尊王攘夷派のグループに参加していました。しかし、幕府で軍艦奉行並を務める勝海舟と出会ったときに、「日本に強い海軍を作らないことには、外国船を打ち払うことなどできない」と諭されます。勝の視野の広さに感服した龍馬は彼に弟子入りし、自身も藩閥にとらわれず、「日本のため」に様々な活動をはじめるのです。

多くの傑物が活躍した幕末において龍馬が大きな実績を残せたのは、キーパーソン同士をつなぎ、チームで成果を出すという現代的な感覚にあったのではないでしょうか。そんな龍馬の仕事ぶりを、「相手が活きる」Imagine「チームが活きる」Linkの例から紹介します。
 

Imagine:互いの利害を一致させ、薩長同盟を実現

両藩の立場や面子をつぶさない現実的な交渉術から、「相手が活きる」Imagineの視点が感じられる
両藩の立場や面子をつぶさない現実的な交渉術から、「相手が活きる」Imagineの視点が感じられる

日本に強い海軍を作ることを目指して、勝海舟のもとで神戸海軍操練所創設に尽力していた龍馬でしたが、幕府の思惑で操練所が閉鎖され、行き場を失ってしまいます。そんな折に、同郷の中岡慎太郎から聞かされた「薩長和解案」に強く共鳴。薩摩藩と長州藩を結んで、幕府を倒すための一大勢力を作るために動きはじめます。
しかし、禁門の変※1の後に薩摩藩と会津藩が長州藩勢力を京都から追い出したことや、幕府による長州征討に薩摩藩が参加していたという遺恨から、両藩は犬猿の仲でした。さらに、やっと設けた会談の席を西郷隆盛がすっぽかしたことで、話し合いは立ち行かなくなってしまいます。そこで龍馬は、長州藩には「薩摩藩名義で最新鋭の小銃を買い付けて、そちらに売り渡しましょう」と、薩摩藩には「不足している兵糧米を長州藩から提供します」と、それぞれ持ちかけて、利害関係で両藩を結んだのです。

※1:八月十八日の政変によって京都から追放されていた長州藩が、会津藩主の松平容保を討つために京都市中に進軍した事件

 


「SMILE」ポイント① Imagine

当時の武士は、自藩の面目や利益を重視していたため、どちらか一方が折れることは非常に難しいという背景がありました。互いに相手の必要なものを提供して、双方の面目を立たせるという龍馬の交渉術は、「相手の立場を思いやる」Imagineの姿勢に基づいていると言えるでしょう。



このときに活躍したのが、“日本初の商社”の亀山社中。英国の武器商人・グラバーから新式の小銃を計7,300丁買い付ける際の仲介役を果たし、薩長同盟実現に大きく貢献することとなりました。
 

「SMILE」ポイント② More

亀山社中とは、幕府によって閉鎖された海軍操練所の同志たちが、薩摩藩や豪商・小曽根家の援助を受けて設立した結社。貿易・海運業で利益を上げながら航海術を磨き、1866年の第二次長州征伐では幕府軍と戦い、長州藩の勝利に貢献しました。海軍や海運の重要さに着目し、最前線で海運立国に取り組んだ姿から、「果敢に挑戦することで仕事が活きる」Moreの要素が読み取れます。


こうして薩長が会談のテーブルに着くまでの下地が整いました。しかし、いざ会談が開かれると、薩摩藩も長州藩も口火を切ろうとせず、話し合いは物別れになってしまいそうに……。
 

Link:藩閥を超えてキーパーソンを味方につける“巻き込み力”

龍馬のダメ押しの一言で、犬猿の仲だった薩長が「チーム」に。Linkの資質が光るエピソードだ
龍馬のダメ押しの一言で、犬猿の仲だった薩長が「チーム」に。Linkの資質が光るエピソードだ

話が平行線をたどるばかりの薩長会談でしたが、龍馬が両藩のトップを必死で説得したおかげで、なんとか同盟成立へとこぎつけられました。「こちらから薩摩に救いを乞おうとは思わない」と渋る長州・桂には、藩閥にとらわれず日本全体のことを考えるよう説得し、長州側から同盟の申し入れを引き出して、優位に立とうとする薩摩・西郷には、「これでは長州があまりに可哀想だ」と率直な感情をぶつけたのです。
 

「SMILE」ポイント③ Link

龍馬のもっとも優れていた資質として挙げられるのが、組織の中のキーパーソンを見抜いたら、その懐に飛び込んで自分の味方につけてしまうところ。「日本に新しい時代をもたらす」という大きな理想の実現に向けて、重要人物たちを自分の「チームメンバー」にしてしまうような“巻き込み力”を持っていたのではないかと考えられます。これぞ「協力することでチームが活きる」Linkの資質の現れだと言えるでしょう。


こうして見事に薩長同盟を成立させた龍馬は、戦争ではなく話し合いで新しい国家を作るべきだと考え、次は大政奉還の実現に向けて動きはじめました。勝海舟に弟子入りしてからの5年間で、龍馬は日本国内を飛び回り、蒸気船での総移動距離は約20,000km以上にものぼるといいます。これほど精力的に活動し続けたのは、ひとえに“日本の未来”のため。しかし、大政奉還が成立した1ヵ月後に京都・近江屋で刺客に襲われ、33年の生涯を閉じたのです。
 

「SMILE」ポイント④ Expert

機を見るに敏で商才にもあふれていた龍馬ですが、その才能を己の私利私欲のために使うことは決してありませんでした。海軍操練所や亀山社中を設立したのは日本に強い海軍を作るためで、薩長同盟や大政奉還は強い新国家を作るため。より良い社会を作るために奔走した龍馬の仕事ぶりは、「社会が活きる」Expertの観点から見ても素晴らしいものでした。

まとめ

犬猿の仲だった薩長を結び、血を流すことなく幕府に政権を返上させる――当時、不可能とも思われた難事を成し遂げられたのは、交渉相手の面子や事情に理解を示しながら相手を巻き込んでいくという、「相手が活きる」Imagine「チームが活きる」Linkの資質を、龍馬が持っていたからでしょう。また、勉学は苦手だったものの、海外の事情や操船術といった新しい知識を学ぶことには貪欲だったというエピソードからは、「学び・感性を磨く」Shineの要素も見て取れます。龍馬が亡くなったのは今から約150年前ですが、かなり現代的な感覚の持ち主だったのではないかと推測できます。


撮影・田村邦男
撮影・田村邦男
監修:小和田哲男
歴史学者。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。静岡大学名誉教授。専門分野は日本中世史、戦国時代史。著書に『日本の歴史がわかる本』(三笠書房)、『織田家の人びと』(河出書房新社)、『歴史に学ぶ~乱世の守りと攻め~』(集英社)など。
・参考文献
『龍馬史』(著・磯田道史/文藝春秋)
『竜馬がゆく』(著・司馬遼太郎/文藝春秋)
『図説 坂本龍馬』(監修・小椋克己、土居晴夫/戎光祥出版)
・参考映像
『その時歴史が動いた』坂本龍馬 幕末の日本を動かす~薩長同盟成立の時~(NHK総合 2000年6月7日放送)
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