編集部では、この「SMILE」について、「もしかしたら、時代を超えて、さまざまな仕事やはたらき方にも通じるのではないか?」という仮説を立てました。そこでスタートしたのが、本連載「SMILE」歴史探偵団です。誰もが知っている、歴史上の人物とそのエピソードに着目して、「SMILE」の観点で分析。その人物の成功の秘訣がどこにあるのか、独自に考察します。
今回のテーマは、津田塾大学を創設した教育者・津田梅子。2024年度から発行される新五千円札の肖像となる人物です。「女に教育は必要ない」とされていた時代に教育者として、女性の地位向上に尽力した彼女の人生を「SMILE」で分析します!
津田梅子の仕事ぶりを「SMILE」で分析!
まずは、「私たちの基本姿勢 -SMILE-」を紹介します。Shine、More、Imagine、Link、Expertという5つのアプローチは、私たちオカムラにかかわる、すべての人の笑顔のために、オカムラグループの従業員一人ひとりが日々の行動の拠りどころとしています。Shine | 4 | 岩倉使節団の一員として米国留学。その後も米英へ留学し知見を深める |
More | 4 | 留学時代の友人の日本風俗研究本に協力。女性教育に関心を持つ |
Imagine | 5 | 留学中に公演で寄付金を集め、「日本婦人米国奨学金制度」設立 |
Link | 4 | 帰国後、教師を続けながら自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行う |
Expert | 5 | 留学中の友人ら支えられ、津田塾大学の前身「女子英学塾」設立に尽力 |
高等教育によって、同胞である日本人女性の地位向上を目指した梅子は、「相手が活きる」「社会が活きる」を重視するタイプの人物だったのではないかと推測しました。現代のダイバーシティにつながる女性教育に関わるエピソードを中心に、梅子の仕事ぶりに迫ります。
日本人女性初&最年少でアメリカ留学。勉学の才が花開く
岩倉使節団の一人として女子留学生たちの中でも最年少の満6歳で、親元を離れてアメリカへと渡った津田梅子。女性の高等教育と地位向上に人生を捧げた彼女は、当時から多様性を重んじ、国際感覚にも秀でた先進的な人物でした。1864年 旧幕臣の津田仙の次女として生まれる
1871年 岩倉使節団に随行して、女子留学生として渡米
1882年 私立の女学校アーチャー・インスティチュートを卒業。同年に帰国
1885年 華族女学校の英語教師になる
1889年 再びアメリカに留学
1900年 官職を辞して、女子英学塾(現・津田塾大学)を開校
1919年 女子英学塾塾長を辞任。闘病生活に入る
1929年 死去
日本人女性初の留学生として11年間をアメリカで過ごした梅子は、17歳で帰国したときに大きな衝撃を受けます。男子留学生たちが要職に就いて華々しく活躍する一方で、女子留学生たちが働ける場所はほとんどなかったからです。そこで彼女は、教育者として日本人女性の地位向上に貢献することを決めました。
後進の女性たちに留学の機会を与えるための奨学金制度を設立したり、女子高等教育の先駆的機関となる女子英学塾を開校・運営したりといったエピソードから、梅子は「思いやりを持ち創造することで、相手が活きる」Imagineと「最良を追求し続けることで、社会が活きる」Expertに優れていたことがわかります。この2つのエピソードを中心に、「SMILE」の各ポイントに触れながら、梅子の生涯を見ていきましょう。
Imagine:日本人女性のためにアメリカ留学奨学金制度を設立
これからの女性を思っての行動は、「思いやりを持ち創造することで、相手が活きる」、まさにImagine!
アメリカから帰国して4年が経ち、21歳になった梅子は上流階級の子女のために設立された教育機関・華族女学校(現:学習院女子中・高等科)で、英語を教えることに。しかし、生徒たちは勉学をたしなみ程度にしか捉えておらず、梅子は「学問を重視した学校を設立しなければ」という思いを強くします。
そのためには、自身が専門性の高い高等教育を受ける必要があると考え、二度目のアメリカ留学を決意。華族女学校に籍を置いたまま、ブリンマー大学※1に入学し、生物学を学びます。
※1:アメリカ合衆国ペンシルベニア州ブリンマー(フィラデルフィア郊外)の私立女子リベラル・アーツ・カレッジ。
「SMILE」ポイント① Shine
ブリンマー大学で、梅子は勉学に邁進。後にノーベル生理学医学賞を受賞するモーガン教授の助手として、カエルの卵の発生に関する論文を発表し、イギリスの学術雑誌に掲載されました。大学に残って研究を続けることも勧められていたというエピソードからも、「学び・感性を磨く」Shineの要素も充実していたことがわかります。ブリンマー大学在学中に、フィラデルフィアの旧家の出身で、アメリカ東部の知識階級に大きな発言力を持つモリス夫人と親しくなった梅子。彼女の援助のもと、講演会や募金活動を行って8,000ドルの基金を集め、「日本婦人米国奨学金」という奨学金制度を創設します。この基金の利子を使って、4年に1人のスパンで日本人女性をブリンマー大学へ派遣。1970年代までの間に、25名の女性をアメリカへと送りました。
「SMILE」ポイント② Imagine
「私利私欲のない人物だった」と評される梅子。留学中も、後進の女性たちのことを考え、彼女らが自分と同じ教育を受けられるよう、道を切り拓いたのです。このエピソードからは、常に「他者を思いやる」Imagineの姿勢が読み取れます。この奨学金制度で留学した女性たちの中には、のちの津田塾大学初代学長・星野あいや、恵泉女学園創立者の河井道がいました。また、友人アリス・ベーコン※2の日本風俗研究本の執筆にも協力。さまざまな階級の日本人女性の境遇について語り合ったことも、梅子の目指す教育機関の形を考えるうえで、重要な経験となりました。そして、アリス自身も梅子のビジョンに共感し、女子英学塾の開校後すぐに来日して、講師の1人として梅子を助けたのです。
※2:アメリカ人女性教育者。著書の『日本の内側』と『日本の女性』は明治日本の女性事情を伝える貴重な史料とされる。
「SMILE」ポイント③ More
友人の研究の手伝いにも全力で取り組む梅子の姿からは、「果敢に挑戦する」Moreの精神が感じられます。Moreの精神を強く持っていた彼女だからこそ、日本における女性教育の向上という大仕事を成し遂げることができたのでしょう。Expert:社会で活躍する女性を育てるため、女子英学塾を開校
「最良を追求し続けることで、社会が活きる」Expertを体現した、女子英学塾の開校
アメリカから帰国した梅子は、華族女学校での教師職に復帰。並行して、自宅で女学生を預かったり、明治女学院で講師を務めたりと精力的に活動します。女学生たちを見つめる梅子の視線は輝いており、「伸びる者を教えるのが好きだ」と語っていたそう。
「SMILE」ポイント④ Link
多くの女学生を教え、世話をしてきた梅子。その中の1人である鈴木歌子が、女子英学塾開校時に教師を務めるなど、梅子の教えを受けた女学生たちが教育者として、彼女のもとに戻ってきたエピソードが残っています。前述の星野あいや河井道ら、“チーム梅子”の活躍からは「チームを活かす」Linkの重要性がうかがえます。華族女学校で8年間教えたあと、梅子は官職を辞して私塾「女子英学塾」の開校に奔走します。岩倉使節団のメンバーとしてともに渡米し、親友となった大山捨松と瓜生繁子、教育家で実業家の桜井彦一郎、父・津田仙らの助けを借りて、1900年9月14日に開校。アメリカから駆けつけたアリス・ベーコンや、彼女と入れ違いに来日したブリンマー大時代の友人、アナ・C・ハーツホン※3も苦しい創設期を支えました。梅子やアリスら講師陣は、ほぼ無報酬。他の学校の講師や家庭教師をしながら、生計を立てているような状態でした。
※3:女子英学塾講師。1902年の3度目の来日から1940年の帰国まで、ほぼ40年間、無給で教鞭を取り、塾の発展に尽力。
「SMILE」ポイント⑤ Expert
梅子のそばには常に支援者がいて、惜しみなく彼女に力を貸していることがわかります。それは「高等教育を通して女性の地位を向上させたい。それこそが社会貢献につながる」という、梅子の信念に共感していたから。自らが思い描く最良の教育機関の設立を目指し、今も残る大学にまで育て上げた梅子は、「社会を活かす」Expertを体現するような人物だったと言えるでしょう。開校時の無理がたたって体調を崩した梅子は1919年に塾長を辞任して、静かな晩年を過ごします。そして、梅子から後進の女性たちへバトンが託された女子英学塾は、開校時は生徒数わずか10名だったにもかかわらず、1948年に津田塾大学となり、多くの研究者や政治家、作家らを輩出する教育機関へと成長しました。
まとめ
今でこそ女性が高等教育を受けることは一般的ですが、それは梅子のような先駆者がいたからこそ。時代の常識に流されることなく、よりよい社会の実現に邁進した梅子だからこそ、女子留学生のための奨学金制度創設(Imagine)や、日本初の学問重視型の教育機関・女子英学塾の開校(Expert)といった偉業が成し遂げられたのです。加えて注目すべきなのが、それらの偉業が留学中の学び(Shine)や女子学生たちへの支援(Link)といった、他のSMILE要素に支えられていること。人と関わり、社会の中で物事を成し遂げるには、SMILEの要素をバランス良く備えることが重要であると言えるでしょう。
撮影・田村邦男
監修:小和田哲男
歴史学者。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。静岡大学名誉教授。専門分野は日本中世史、戦国時代史。著書に『日本の歴史がわかる本』(三笠書房)、『織田家の人びと』(河出書房新社)、『歴史に学ぶ~乱世の守りと攻め~』(集英社)など。
歴史学者。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。静岡大学名誉教授。専門分野は日本中世史、戦国時代史。著書に『日本の歴史がわかる本』(三笠書房)、『織田家の人びと』(河出書房新社)、『歴史に学ぶ~乱世の守りと攻め~』(集英社)など。
『津田梅子』(著・大庭みな子/朝日新聞出版)