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渋沢栄一と「日本の近代化」藩閥や身分を超え、日本社会を改革!

2022.07.26
オカムラグループには、一人ひとりが、日々の行動の拠りどころとするための「私たちの基本姿勢 -SMILE-」という5つのアプローチがあります。

編集部では、この「SMILE」について、「もしかしたら、時代を超えて、さまざまな仕事やはたらき方にも通じるのではないか?」という仮説を立てました。そこでスタートしたのが、本連載「SMILE」歴史探偵団です。誰もが知っている、歴史上の人物とそのエピソードに着目して、「SMILE」の観点で分析。その人物の成功の秘訣がどこにあるのか、独自に考察します。
 
今回のテーマは、2021年大河ドラマの主人公として話題となり、2024年からは一万円札の肖像となる実業家、渋沢栄一が日本の近代化に影響を与えた取り組みについて。当時の常識では考えられなかった、彼の功績の背景や栄一の人となりを「SMILE」で分析します!

渋沢栄一の仕事ぶりを「SMILE」で分析!

まずは、「私たちの基本姿勢 -SMILE-」を紹介します。Shine、More、Imagine、Link、Expertという5つのアプローチは、私たちオカムラにかかわる、すべての人の笑顔のために、オカムラグループの従業員一人ひとりが日々の行動の拠りどころとしています。
 
では、編集部の「SMILE」分析結果です。以下のチャートを見てわかる通り、「日本の近代化」における渋沢栄一の働きは、「SMILE」の観点で全体的に高評価でした。
 
Shineパリ万博で渡仏後に欧州各地を遍歴。日本の「遅れ」と自分の天命を知る
More日本の商工業を発展させるため、大蔵省次官の地位を捨てて実業家に転身
Imagine女子教育の推進、孤児向けの「東京養育院」設立に尽力​​
Link藩を超えた十数名と「改正掛」を発足→地租改正などに貢献
Expert第一国立銀行と商工会議所創立→​商工業発展


「SMILE」を体現するかのようなオールマイティな人物像が浮かびあがりました。今回はその中でも5点をつけた「チームが活きる」「社会が活きる」を主軸に、渋沢栄一の生涯や近代日本の礎をつくった際のエピソードから、彼の仕事ぶりを探ります。
 

経済・社会発展に貢献した“日本資本主義の父”渋沢栄一

活動家、幕臣、官僚、そして実業家。肩書をさまざまに変えながら、幕末から昭和にかけての激動の時代を生きた渋沢栄一。彼がどのような人生を歩んだのか、見ていきましょう。

1840年 武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれる
1861年 従兄弟の渋沢喜作と江戸に出て遊学。尊皇攘夷の思想に目覚める
1866年 徳川(一橋)慶喜の将軍就任にともなって、幕臣となる
1867年 パリ万博使節団の一員として渡仏
1869年 新政府に仕官。民部省租税正、改正掛長を務める
1875年 第一国立銀行の頭取になる
1885年 日本郵船会社設立。以降、様々な会社の設立や社会事業に関わる
1931年 死去

農民の家に生まれながら、数々の大企業の設立や社会事業に携わる大実業家となった栄一は、身分や肩書にとらわれずに人を評価し、日本社会の近代化に大いに貢献した人物です。卓抜したビジネスパーソンである彼は、「SMILE」のすべての要素をバランスよく備えていますが、中でも「多様性を愛し、協力することで、チームが活きる」Linkと「最良を追求し続けることで、社会が活きる」Expertに優れていたと言えるでしょう。

それが顕著なのが、改正掛という新組織を立ち上げたときのエピソードと、日本最古の銀行・第一国立銀行や東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を設立したエピソード。「SMILE」の各ポイントにも触れながら、「チームが活きる」Linkと、「社会が活きる」Expertの“片鱗”をご紹介します。
 

Link:重大任務を遂行するため、新組織「改正掛」を設置

国の基礎づくりに向けた取り組みは、まさに「協力することことで、チームが活きる」Linkそのもの
国の基礎づくりに向けた取り組みは、まさに「協力することことで、チームが活きる」Linkそのもの

徳川慶喜の弟・民部公子(徳川昭武)に付き添ってフランスへと渡った栄一。パリ万博で世界中の最先端技術に触れたり、ヨーロッパの文化や金融・経済の仕組みについて学んだりと、有意義な時間を過ごしました。帰国した栄一は、主君である徳川慶喜のいる静岡藩で日本初の株式会社をつくろうとしていた矢先、明治政府から租税正※1に任命されます。静岡での事業にやりがいを感じていた栄一はこのオファーを一度断りますが、重鎮・大隈重信から説得され、新政府の官僚となりました。

※1:後に大蔵省と合併される民部省の局長クラス

 


「SMILE」ポイント① Shine

フランスに渡った栄一は、家庭教師を雇ってフランス語を学んだり、公債や株式の売買を通して銀行家のフリュリ・エラールから経済や金融について教わったりと、自己研鑽に余念がありませんでした。これぞ「学び・感性を磨く」Shineの姿勢です。また、軍人(官)と銀行家(民)が対等な関係を築いている様子にも大いに感動し、日本に残る「官尊民卑」の文化を打破することが、自らの使命だと自覚したといいます。


官僚となった栄一は働きはじめてすぐに、省内のマネジメントが上手くいっておらず、課題と業務が山積みになっていることに気づきます。これでは日本を近代国家に押し上げる新しい取り組みなどできません。そこで、国の基礎づくりを行うための新組織、「改正掛」の設置を大隈重信に提案するのです。

改正掛を組織するにあたって栄一は、先進国の事情に詳しい優秀な人材を集めることに尽力しました。現代のビジネスにたとえるなら、プロジェクトチームやシンクタンクといったところです。「適材適所の人事」をモットーに、明治政府の主流派だった薩長閥にこだわらず、出自も専門性も多様なメンバーが改正掛に迎えられました。
 

「SMILE」ポイント② Link

改正掛の一員であった前島密は郵便制度の基礎を作った「日本近代郵便の父」、赤松則良はのちに海軍中将となる人物です。「多様性を愛する」Linkに通じる精神のもと、さまざまな人材が集められていたことがわかります。



栄一は彼ら精鋭の性格や能力、専門性を見抜いて人材配置を行い、地租改正や廃藩置県をはじめとした、さまざまな大改革を成し遂げます。しかし、財政方針をめぐって政府と対立。上司であった井上馨※2の辞職をきっかけに大蔵省を辞めて、一人の実業家として日本の近代化に貢献する決意を固めるのです。

※2:明治・大正時代の政治家。内務大臣や大蔵大臣といった要職を務める
 

「SMILE」ポイント③ More

大蔵省を辞職する際、栄一は次官という高い地位にいました。さらに、大隈重信や伊藤博文ら重鎮からの強い慰留があったにもかかわらず、「日本の商工業を発展させる」という信念のもと、明治政府を去ったのです。ここから「果敢な挑戦で仕事を活きる」Moreの姿勢が見て取れます。

Expert:類稀な才覚で「商工業の発展」と「官尊民卑の打破」を実現!

身分や肩書にとらわれず、国のためにベストを追求する。まさに「社会が活きる」Expertに通じる発想
身分や肩書にとらわれず、国のためにベストを追求する。まさに「社会が活きる」Expertに通じる発想

明治政府を去った栄一は、かねてからの目標であった「商工業の発展」と「官尊民卑の打破」を実現するため、以前にもまして精力的に動きはじめます。その中でも特筆すべき功績が、第一国立銀行と東京商法会議所の設立です。それぞれどのような考えに基づいていたのか、個別に見ていきましょう。

(1)第一国立銀行の設立

渋沢は、ヨーロッパ留学で得た知見をもとに、日本の商工業を発展させるためには、金融機関の整備が欠かせないと考えました。そこで、初の銀行である「第一国立銀行」を設立。ここで栄一は第一国立銀行の発展のみならず、「武士の魂」と「利益追求の精神」を併せ持った新しいタイプの産業人を育てようとします。それが商工業の発展という公益につながると考えたからです。

(2)東京商法会議所の設立

中小企業の経営支援や地域振興活動を行う総合経済団体、東京商工会議所。その前身となるのが東京商法会議所です。「士農工商」の考え方が残っていた当時、日本における商工業者の地位と意識は低く、事業の改革や改良は期待できないような状態でした。そこで、まず商業者たちを教育・指導する機関として東京商法会議所を設立したのです。
 

「SMILE」ポイント④ Expert

この後も栄一は、「東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)」や「日本鉄道会社(現・東日本旅客鉄道)」、「東京電灯会社(現・東京電力ホールディングス)」といった大企業の設立に尽力。すべては「日本社会の発展に貢献したい」というExpertの精神に基づいた活動でした。

栄一の活躍はビジネスのみにとどまらず、社会公共事業にも多数関わってきました。孤児や身寄りのない老人らのための保護施設として「東京養育院」を設立したり、女性の学問の場となる「日本女子大学校」創立にあたって多額の寄付を行ったりしています。


「SMILE」ポイント⑤ Imagine

貧富の格差をなくして、誰もが活躍できる社会をつくるにはどうすればいいのか――現在社会にも通じる問題意識を、栄一はすでに持っていたようです。様々な立場・境遇の人に思いを寄せ、相手を活かそうとする考え方はImagineに通じていると言えるでしょう。

まとめ

日本の変革期を駆け抜けた渋沢栄一。「SMILE」分析でも明らかなとおり、極めてバランス感覚に優れ、理想的なビジネスパーソンだったことがうかがえます。農家の子として生まれ、尊皇攘夷(討幕)に目覚めますが、一転して幕府側(一橋家)の家臣に。さらに、ヨーロッパで産業・制度などを見聞した後は、開国した日本で官僚、実業家に転身。一見、時世の流れに身を任せているだけのようにも思えますが、彼は、「日本社会を発展させる」という大きな目標を決して忘れませんでした。見方を変えれば、欧州歴訪中の徹底した学び(Shine)や官僚の地位を捨てて実業家に転身したエピソード(More)、改正掛の設立(Link)などはすべて、「商工業の発展」と「官尊民卑の打破」を実現するための布石だったといえるでしょう。このように、SMILEの要素をバランスよく合わせ持った人物だったからこそ、よりよい社会の実現に貢献できたのだと考えられます。


撮影・田村邦男
撮影・田村邦男
監修:小和田哲男
歴史学者。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。静岡大学名誉教授。専門分野は日本中世史、戦国時代史。著書に『日本の歴史がわかる本』(三笠書房)、『織田家の人びと』(河出書房新社)、『歴史に学ぶ~乱世の守りと攻め~』(集英社)など。

・参考文献
『偉人に学ぶ渋沢栄一』(著・前田信弘/日本能率協会マネジメントセンター)


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