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織田信長と桶狭間の戦い突出した個の能力で圧倒的不利な戦いに勝利!

2022.05.31
オカムラグループには、一人ひとりが、日々の行動の拠りどころとするための「私たちの基本姿勢 -SMILE-」という5つのアプローチがあります。

編集部では、この「SMILE」について、「もしかしたら、時代を超えて、さまざまな仕事やはたらき方にも通じるのではないか?」という仮説を立てました。そこでスタートしたのが、本連載「SMILE」歴史探偵団です。誰もが知っている、歴史上の人物とそのエピソードに着目して、「SMILE」の観点で分析。その人物の成功の秘訣がどこにあるのか、独自に考察します。
 
今回のテーマは、織田信長と桶狭間の戦いです。戦国時代、信長が台頭するきっかけともなった戦い、その背景と信長の人となりを「SMILE」で分析します!

織田信長の仕事ぶりを「SMILE」で分析!

まずは、「私たちの基本姿勢 -SMILE-」を紹介します。Shine、More、Imagine、Link、Expertという5つのアプローチは、私たちオカムラにかかわる、すべての人の笑顔のために、オカムラグループの従業員一人ひとりが日々の行動の拠りどころとしています。
 
では、編集部による「SMILE」分析結果です。参考文献から信長の行動を「SMILE」項目ごとに5段階で評価しました。その結果、桶狭間の戦いにおける信長について「SMILE」の観点で、もっとも光っていたのは「自分が活きる」Shine「仕事が活きる」Moreでした。
 
Shine5情報の取り扱いに細心の注意を払い、勝利を掴む
More5目的の一点集中によって、兵数の不利を解消
Imagine1重臣にすら作戦を漏らさぬよう軍議を中止
Link1味方を“生贄”にして義元の首を狙う作戦
Expert4天下布武への第一歩


つまり、信長は、「自分が活きる」「仕事が活きる」タイプの戦国武将だったのでは? というのが、編集部の「説」です。それでは、信長の生涯や桶狭間の戦いのエピソードから、彼の仕事ぶりを探ってみましょう。
 

天下統一の目前まで迫った“乱世の風雲児”織田信長

乱世の風雲児――16世紀の戦国時代を生きた英傑・織田信長は、しばしばそのように称されます。まずは信長の生涯を年表で見てみましょう。

1534年 尾張(愛知)で織田信秀の三男として生まれる
1552年 19歳で家督を継ぐ
1559年 上洛して室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見する。尾張統一をほぼ果たす
1560年 桶狭間の戦いで今川義元を破る
1571年 比叡山延暦寺を焼き討ちにする
1573年 15代将軍・足利義昭を追放。妹・お市の婚家である浅井氏を滅ぼす
1575年 長篠・設楽原の戦いで武田勝頼を破る
1577年 十三ヵ条の掟書(楽市令)を発する
1582年 甲州平定。本能寺にて自刃する(本能寺の変)

およそ30年の間で、いち地方領主から天下人へと駆け上がっていく波乱万丈の人生からは、信長が独自の哲学と強い上昇志向を持っていたことがうかがえます。「SMILE」のShineMoreが極めて抜きん出た人物だったといえるでしょう。

それが顕著に表れたのが、1560年、尾張制圧をねらう駿河(静岡)の今川義元と信長の間で起こった「桶狭間の戦い」。織田家の領地を狙う今川義元が2万5000の大軍を率いて駿河を出陣し、尾張に侵攻。翌日の早暁、織田方最前線の2つの砦に対して攻撃を開始し、その両方を陥落させました。この絶対的不利な戦いを、信長はいかに覆したのか。「SMILE」の各ポイントにも触れながら、学び・感性を磨くことで「自分が活きる」Shineと、果敢に挑戦することで「仕事が活きる」Moreの“片鱗”が見える、2つのエピソードで紹介します。
 

Shine:青年期から磨いてきた情報マネジメント能力

情報の重要性を熟知した信長は、巧みな情報戦略によって「自分が活きる」状況をつくり出す
情報の重要性を熟知した信長は、巧みな情報戦略によって「自分が活きる」状況をつくり出す

圧倒的な兵力差と前哨戦の大敗――この逆転不可能とも思える戦いにおいて、信長が重視したのが「情報」でした。信長は当代随一と言っていいほど、「情報」の重要性を熟知していた武将。青年期、鷹狩のときに家臣を斥候に出して、獲物の居場所を探っていたというエピソードが残っています。
 

「SMILE」ポイント① Shine

青年期から物事の成否は情報にかかっていることを熟知していた信長。長じて後も、戦や家臣の統治に、情報を役立てていました。このエピソードから、学び・感性を磨くShine的なアプローチの重要性がわかります。


今川義元との戦いにおいて、情報マネジメント能力が役立った事例のひとつが、家臣の森可成(もり・よしなり)を商人に仕立てて、義元の本拠・駿府城下に潜り込ませたこと。「左馬助※1は偽って義元に味方しているだけで、義元が攻め入った時には、信長と図ってはさみ撃ちにする手はずになっている」という噂を森可成に流させました。結果、信長の策略通りに、義元は山口親子を殺してしまったのです。

※1:山口教継。織田から今川方に寝返った武将。

また、先述した前哨戦での敗報を受けた信長は、その夜の軍議をしないまま寝てしまったかと思うと、夜中に突然出陣の支度をして熱田神宮へと向かいました。自軍の動きが今川方に知られないよう、近臣にも作戦を打ち明けなかったと伝わっているほど、情報の扱いに注意を払っていたのです。
 

「SMILE」ポイント② Imagine

敵方に一分の隙きも見せない、徹底した情報統制が見事な一方、近臣の立場からすると、「信頼されていない」「どう動けばいいのかわからない」といった不満が生まれる恐れが。思いやりをもって「相手が活きる」Imagineの観点からすると、あまり望ましい状況ではありません。


情報を通じた心理戦と同時に、自軍からの情報漏えいを徹底的に防いだ信長。桶狭間での勝利の決め手も情報にあったと考えられています。斥候として放った家臣・簗田政綱(やなだ・まさつな)が入手した、「今川軍が休憩中」という情報から奇襲のきっかけを掴み、大勝利を手繰り寄せたのです。大将首を取った毛利新助よりも、簗田政綱に多くの褒美が与えられた※2ことからも、情報を重要視する信長の哲学がうかがえます。

※2:当時、戦で大将首をとった者が一番手柄とされる傾向があったが、それ以上の評価だった。

 

More:“最強”今川義元に挑んだ織田信長。その奇策とは?

数では勝ち目がないからこそ、講じた数々の策。まさに「仕事が活きる」に通じる、果敢な挑戦の連続
数では勝ち目がないからこそ、講じた数々の策。まさに「仕事が活きる」に通じる、果敢な挑戦の連続

近臣5騎とともに、居城としていた清須城を飛び出し、熱田神宮へと向かった信長。戦勝祈願に集まった約3000の軍を率いて、義元本隊に挑むことに。とはいえ、正面から今川軍と戦っても勝てないことを、信長は理解していました。それゆえ、さまざまな策を講じます。

(1)信長軍の300騎を“生贄”として今川軍に突入させた

この作戦により、義元軍の兵力分散に成功。しかし、今川軍に突入した300騎からは犠牲者も多数出てしまいました。
 

「SMILE」ポイント③ Link

味方を捨て石にする作戦は、乱世の戦においては珍しいものではなかったかもしれません。しかし、多様性を愛し、協力し合うことによって「チームが活きる」Linkの観点から見ると、ワンマンが過ぎるといえるでしょう。

(2)家臣の簗田政綱に義元の動きを探らせていた

Shineのエピソードとして紹介したように、簗田が知らせた「義元軍休憩の報」が奇襲のきっかけとなりました。

(3)義元がいた桶狭間山の近くにある善照寺砦に信長軍の「のぼり」を立てた

義元軍がのぼりの動きを注視している間に、信長軍は桶狭間山に移動したのです。


こうして義元をじわじわと追い詰めていく信長。一方の義元は、兵数の優位性と前哨戦の勝利から油断していたうえ、奇しくもあたりが暴風雨に見舞われたことで、信長軍の侵攻をまったく予期していませんでした。この隙をついて信長軍は一斉に攻め入り、不意を襲われた義元軍は総崩れに。そして、信長の家臣・毛利新助が今川義元の首を討ち取り、信長軍が勝利を収めました。
 

「SMILE」ポイント④ More

兵数の違いという絶対的不利に屈することなく、「今川義元の首」という目的にリーチした歴史的大勝利。その裏には、今川軍への勝利という「大仕事」をやってのけた、Moreに通ずる信長の果敢な挑戦心があったのです。

まとめ

果敢な挑戦によって戦(仕事)をやり遂げ、そのために弛みなく自分の学びや感性を磨き続ける。「自分が活きる」「仕事が活きる」タイプの戦国武将―― 「SMILE」分析から見えてきた織田信長の姿からは、現代のビジネスパーソンとの共通点が多く感じられます。こうしたスタイルが最終的に天下布武への布石となったわけです。そこには最良を追求して「社会が活きる」Expertの要素も見てとれます。しかし、家臣への思いやりにつながる、「相手が活きる」Imagineや、チームワークを大事にする、「チームが活きる」Linkの欠如から腹心の家臣に裏切られ、本能寺で最期を迎えた信長。個として優れた能力を持っていても、周囲への思いやりや協調性がないと、どこかに歪みができてしまいます。「SMILE」のどれが欠けていてもいけない――そんなことを信長の生涯から感じました。


撮影・田村邦男
撮影・田村邦男
監修:小和田哲男
歴史学者。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。静岡大学名誉教授。専門分野は日本中世史、戦国時代史。著書に『日本の歴史がわかる本』(三笠書房)、『織田家の人びと』(河出書房新社)、『歴史に学ぶ~乱世の守りと攻め~』(集英社)など。
 

・参考文献
『詳細図説 信長記』(著・小和田哲男/新人物往来社)
『図説織田信長』(著・小和田哲男、宮上茂隆/河出書房新社)


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