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鎌倉幕府の影の守護者・北条政子尼将軍は日本初の女性リーダー⁉

2022.03.29
オカムラグループには、一人ひとりが、日々の行動の拠りどころとするための「私たちの基本姿勢 -SMILE-」という5つのアプローチがあります。

編集部では、この「SMILE」について、「もしかしたら、時代を超えて、さまざまな仕事やはたらき方にも通じるのではないか?」という仮説を立てました。そこでスタートしたのが、本連載「SMILE」歴史探偵団です。誰もが知っている、歴史上の人物とそのエピソードに着目して、「SMILE」の観点で分析。その人物の成功の秘訣がどこにあるのか、独自に考察します。

 
今回取り上げるのは、鎌倉幕府の創立者・源頼朝の妻として、そして「尼将軍」の異名で知られる北条政子。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、したたかで野心的な名キャラクターとして話題になっています。そのしたたかさから「悪女」や「鬼嫁」というイメージを持たれがちな政子ですが、鎌倉幕府が危機に瀕したときに御家人※1たちをまとめあげたのは彼女その人。“日本初の女性リーダー”のチームマネジメント術を「SMILE」で分析していきます!

※1:鎌倉幕府に従属する武士たちのこと

北条政子の仕事ぶりを「SMILE」で分析!

まずは、「私たちの基本姿勢 -SMILE-」を紹介します。Shine、More、Imagine、Link、Expertという5つのアプローチは、私たちオカムラにかかわる、すべての人の笑顔のために、オカムラグループの従業員一人ひとりが日々の行動の拠りどころとしています。
 
このSMILEをもとに編集部が北条政子の仕事ぶりを分析しました。その結果、北条政子は「More」「Imagine」に優れていることがわかりました。
Shine4父・時政から薫陶を受け、政治の才能を開花させる
More5朝廷に対して挙兵し、鎌倉幕府を守り抜いた
Imagine5演説で御家人の心をつかみ、チームをまとめた
Link2自らの理想に反する実子・頼家と父・時政を処断
Expert東国武士の名誉や権利を守るため、武家政権樹立に尽力


政子の最大の実績は、朝廷が鎌倉幕府に対して挙兵した際に、頼朝からの「ご恩と奉公」を説いて御家人たちを“ワンチーム”にまとめ上げ、見事に幕府を守り抜いたことです。チームメンバーにめざすべきビジョンを示して、モチベーションをコントロールすることで目標を達成する――そんな政子の姿はまるで、スタートアップ企業のリーダーのようにも見えます。

そこから推測すると政子は、「仕事が活きる」「相手が活きる」タイプの人物だったのではないでしょうか。
 

鎌倉時代における政子のリーダーシップとは?

北条政子と源頼朝が出会ったのは、時の太政大臣・平清盛をはじめとした平氏が栄華を誇り、源氏が虐げられていた時代。北条氏が治める伊豆に、頼朝が流人として滞在していたときに2人は結ばれました。そして頼朝は北条一族を後ろ盾に、平氏に対抗する源氏の棟梁として蜂起することになります。

1157年 伊豆国の豪族・北条時政の娘として生まれる
1177年 時政の反対を押し切り、源頼朝と結婚する
1180年 頼朝が東国の主となり、政子は「御台所」と呼ばれるように
1182年 長男・頼家(二代将軍)を出産
1192年 頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が成立
1199年 頼朝が急死し、頼家が二代将軍に。政子は出家する
1219年 三代将軍・実朝が死去、政子が鎌倉殿を代行する
1221年 承久の乱。「ご恩と奉公」の演説を行う
1225年 病の床につき死去

源氏の嫡流という身の上から、周囲に担がれるように挙兵した頼朝をそばで支えていたのが政子。父・時政や弟・義時とともに、政治面で頼朝を助けることもあったそうです。当時はまだ、朝廷に対する武士の立場は低かったうえに、武士側も決して一枚岩とは言えない状態で、幕府創立までの道のりは非常に険しいものでした。

そして、鎌倉幕府創立後も数々の苦難が政子を襲います。幕府創立後、わずか7年で頼朝が急死、二代目将軍の頼家は権力争いに敗れて出家させられ、三代目将軍の実朝は甥の公暁(こうきょう)に暗殺され、幕府は存続の危機に。さらに、追い打ちをかけるように承久の乱が起き、政子は鎌倉幕府を守るために尼将軍として立ち上がります。朝廷に立ち向かうことをためらう御家人たちをいかにまとめ上げ、戦いに打ち勝ったのか、「仕事が活きる」More「相手が活きる」Imagineの観点から政子のリーダーシップをチェックしていきましょう。
 

More: 朝廷に対して挙兵し、鎌倉幕府を守り抜いた

当時の御家人たちの間には、高貴な家柄を無条件に敬う“貴種尊重”の気風が強くあった
当時の御家人たちの間には、高貴な家柄を無条件に敬う“貴種尊重”の気風が強くあった

頼朝の実子である頼家と実朝を次々に失い、鎌倉幕府内は混乱のさなかにありました。その混乱に乗じて幕府の力を削ごうと、後鳥羽上皇が挙兵したのが承久の乱。当時の鎌倉幕府執権・北条義時を討ち取ることで、朝廷の実権回復を目論んだのです。

後鳥羽上皇は自らが挙兵するのみならず、全国の武士や豪族たちに「義時を討て」という院宣※2を出し、それによって御家人たちはひどく動揺していました。当時の鎌倉武士たちは朝廷に畏敬の念を持っており、院宣に逆らって上皇に弓を引くことをためらったのです。元下級貴族で朝廷の事情に詳しい大江広元も、「京に攻め上がる大義名分が必要」と懸念を示します。しかし、政子は院宣を「幕府の権力を削ぐための不当な言いがかり」と断じて、朝廷と戦うことを決めました。

※2:上皇からの命令を受けて発給される文書

 


「SMILE」ポイント① More

小国の豪族の主としての父の苦労や、幕府創立までの頼朝の奮闘をそばで見てきた政子。彼らをはじめとした武士の働きを知っている彼女だからこそ、朝廷を恐れずに挙兵するという大決断が下せたのでしょう。既成概念にとらわれることなく、東国武士たちの権利を守るために立ち上がる姿から、政子は「仕事が活きる」Moreの資質を持つ人物だったと考えられます。



政子が「朝廷への挙兵」を選択できたのは、幕府内の混乱を機に執権である北条氏の権力を削ごうという上皇の思惑が読み取れたから。そして、北条氏の失脚はさらなる幕府内の混乱を招き、ひいては朝廷との力関係が幕府成立以前に逆戻りし、武士たちの立場が弱くなりかねないと危惧したのです。“身内第一主義”が当時の鎌倉武士の、そして政子の行動指針でした。
 

「SMILE」ポイント② Link

身内を守るためなら誰よりも勇敢になれた政子ですが、一方で身内に不利益をもたらす者や、考えを異にする者を排除しようとする傾向が強かったよう。例えば、北条氏のライバル・比企氏と強く結びつき、乱暴な独裁をはじめた実子・頼家を出家させる、京都方(朝廷)への肩入れが強くなった父・時政を隠居に追い込む、といったエピソードが残されています。「多様性を愛し、協力することでチームが活きる」Linkの資質は低かったのでしょう。

Imagine:演説で御家人の心をつかみ、チームをまとめた

政子が故・頼朝公の思いを代弁する、という形で御家人たちに呼びかけをした
政子が故・頼朝公の思いを代弁する、という形で御家人たちに呼びかけをした

政子を筆頭とした幕府首脳部は挙兵の覚悟を決めましたが、御家人たちの間では動揺とさまざまな思惑が入り乱れている状態でした。「上皇や天皇に弓を引くのか」「このまま鎌倉方にいて大丈夫なのか」「幕府が負けたら、自分たちの領土はどうなるのか」と、ざわつく御家人たち。この頃の幕府と御家人は、後世ほど強い主従関係で結びついていたわけではなかったのです。このままでは朝廷との対決以前に幕府が内部崩壊しかねない――そう危惧した政子は、御家人たちに向けて故・頼朝公の“ご恩”を訴えかける演説を行いました。
 

「SMILE」ポイント③ Shine

政子がこのように大局的な判断を下せたのは、鎌倉幕府初代執権だった父・時政の影響だと言われています。伊豆の小豪族から執権の地位にまで駆け上がった彼は、東国武士には珍しい老獪さと政治の才能を持っていました。時政から薫陶を受け、見事に政治の才能を開花させた政子は「学び・感性を磨くことで、自分が活きる」Shineの資質も兼ね備えていたのでしょう。


「武士に課せられた大番役※3の任期を3年から半年に縮め、武士の権利と財産を守った頼朝公へのご恩を忘れられようか。今こそ、そのご恩に奉ずるときではないか」。そう呼びかけた政子の言葉に、御家人たちは真剣に耳を傾けます。なぜなら、政子は“東国武士の切実な事情”をよく理解していた人物だったからです。

3年間の大番役を務める際、移動費用や滞在費用はすべて自腹。大番役の負担に苦しむ武士たちの姿をその目で見てきた彼女だからこそ、御家人たちの心を打つ演説ができたのでしょう。政子の言葉に感動した御家人たちは、京へ向かって攻め上がり、完全勝利を治めました。

※3:武士に課せられた、京都の皇居や院などの警備に当たる任務。
 

「SMILE」ポイント④ Imagine

動揺と打算に揺れていた御家人たちの心を「ご恩と奉公」というキーワードで“ワンチーム”にまとめ上げ、鎌倉幕府の危機を乗り越えた政子。幕府と御家人の間にある利害関係を「ご恩と奉公」と言い換えて、チームの原動力とした手腕は、現代のビジョン型のリーダーシップに通じるものがあります。この逸話から、「思いやりを持ち創造することで、相手が活きる」Imagineの資質が感じられます。

まとめ

「朝廷と幕府の対立」という前代未聞のトラブルに際して、御家人に「ご恩と奉公」というビジョンを示すことで逆境を打開した北条政子。鎌倉幕府を守り切るという“仕事”を実現するためには、御家人たちにどんなアプローチするべきか――政子の思考プロセスからは、「仕事が活きる」More「相手が活きる」Imagineの資質が伝わってきます。

また、鎌倉幕府のためにすべてを捧げる、激動の人生を生きた政子は「最良を追求し続けることで、社会が活きる」Expertの資質も強く持っていたと考えられます。幕府成立後すぐに最愛の夫を亡くし、跡継ぎの子どもたちも次々に彼女の元を去っていきましたが、「武士による武士のための政権をつくる」という彼女のビジョンはぶれませんでした。どんな苦難にさらされても信念を貫く政子の生き様は、予測不可能な時代を生きる私達のロールモデルとなりえるのではないでしょうか。
 


撮影・田村邦男
撮影・田村邦男
監修:小和田哲男
歴史学者。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。静岡大学名誉教授。専門分野は日本中世史、戦国時代史。著書に『日本の歴史がわかる本』(三笠書房)、『織田家の人びと』(河出書房新社)、『歴史に学ぶ~乱世の守りと攻め~』(集英社)など。
 
・参考文献
『尼将軍 北条政子』(著・童門冬二/PHP研究所)
『北条政子』(著・永井路子/文藝春秋)

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